序章 終わりの足音
ノエル
カロンカラギャリッと小石が転がり、擦れる音。それが近づいてくる。
そして私の足も、同じ音をさせていた。
重い。荷物と、空気が。
苦しい。脇腹も痛い。だけど、止まったらもう、捕まってしまう。
肩に何かが触れた。
とっさに熊のぬいぐるみを振り回し払ったけれど、慌てすぎて踏んだ石が崩れ、ついに転けてしまった。
膝や脛や手を擦って、ぶつけて、河原に叩きつけられたトランクがガコン、ガタッ! と大きな音を立てる。
痛い。
蹴っ飛ばしてしまった小石が飛んでいき、しばらくしたら、下の方でボシャンという音。
その音が思っていたよりも遠く、はっとして顔を上げたら、私の進むはずだったほんの少し先にはもう、地面が無かった。
……あっぶない。
崖? いや、滝だ。地図に描いてあったのを思い出す。それに気づかず私は、もう少しでここに――。
「ザンネーン。追いかけっこはお終いだなぁ」
嘲りを含んだ背中からの掠れ声で、我に返った。
慌ててトランクを引き寄せ、振り返ると――。
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた使用人と運転手が、ほんの数歩まで距離を詰めていた。
視線を巡らすけれど、右は音を立てて流れ落ちていく川。左は森で、両方を塞がれている。
もう、逃げ場はない……。
「……っ、人殺しっ!」
罵ったら。
「何言ってんだ。お前まだ死んでねぇだろ!」
可笑しそうにそう返された。
石を掴んで投げたけれど、それはひょいと避けられ、歯噛みする私をヘラヘラと笑って見下ろす。
涙が溢れそう。でも、泣いたってどうにもならないことだけは分かっていた。
石の代わりに、ミミーの腕を掴み直し、なんとか立ち上がる。そこに三人目……私の叔父が、息を切らせながら加わってきて。
「さぁノエル、もう観念して、手紙をこちらに渡せ。そうすれば、命だけは助けてやろう」
嘘おっしゃい。
――そんなつもり、毛頭ないくせに。
そう思ったけれど、後ろは崖で前には男三人。
嫌だと突っぱねたところで、トランクを奪われ、手紙も奪われて、私は殺されるんだろう。
どっちにしても、私の未来は……。
――……諦めてたまるもんか!
このまま捕まって殺されるくらいなら、ちょっとでも、可能性のある方に賭けるわよ。
ちらりと後方を確認したら、滝壺は深く濃い青緑色。
神様、哀れなこの私を、ほんの少しだけでいい、お助けください!
「これが欲しいなら、差し上げるわ……」
トランクの留め金に手をかけて、一つを外し、もう一つに手を伸ばす。
そうすると、ニヤリと笑った叔父が、足を進めてきた。
私はバクバクする心臓と震える唇に気づかれないよう、奥歯を噛み締める。
万事休すの今、一度きりのチャンスをものにするために。
ジャリと、踏まれた小石の擦れる音。伸ばされた腕。
叔父が射程内に入ったタイミングで、私はトランクを思い切りスイング!
叔父の側頭部を直撃したトランクは、鈍い音とともにバッカリ開き、中身をそこらじゅうにぶちまけた!
衣服、下着、書類も手紙もポーチも、何もかもを!
「でも、自分で探してちょうだい!」
頭を押さえてうずくまる叔父と、舞った荷物に目を奪われる運転手。手紙に視線を吸い寄せられた使用人を尻目に、私はミミーをトランクへ放り込み、留め金を閉め直す。
そうして振り返り、地を蹴った。
アシュリー
猟師の朝は早い。
と、思われがちだけど、僕の朝は別段早くない。
山に囲まれているこの一帯は、あまり早いと霧が立ち込めて逆に危険だし、僕の相棒は犬ではなく、鳥だったから。
山から陽が完全に顔を出した頃合。
服装を整え、猟銃を肩に引っ掛け古屋の外へと出たら、玄関横に設置された古めかしいとまり木に、僕の半分くらいある大きな猛禽が羽繕いの真っ最中だった。
「おはよう師匠」
珍しい。
いつもなら山を歩き出したあと、どこからともなく飛んでくるのに。
「どうしたの? もう獲物、見つけたんだ?」
そう声をかけるけど、猛禽は答えない。もちろん、今までだって会話ができた試しはなかった。
「今日は罠から回るつもりだから、師匠は先に食事してきたらいいよ」
そう言って足を進めたら、とまり木を飛び立った師匠は、なぜか僕のパイロットキャップに飛び乗ってくる。
「ちょっ、やめろってば! ゴーグルが爪で傷つくじゃん!」
ゴーグルで済めばいいけど、下手をしたら僕の頭に穴が空く!
師匠こと、ワシノスリのノスリ師匠は、全長二フィート八インチ、体重八ポンドと、人の赤子よりも大きく重い。ワシとつくけど鷲じゃない。ワシノスリは、鷲くらいでかい鷹のこと。
全身は淡い青灰色で、胸元から腹にかけては白地に茶のストライプ。脚と嘴は向日葵色で、爪と嘴の先は濃灰色。ワシノスリはとても凛々しく格好いい種だと、僕は思う。
そしてワシノスリの脚は、狩りのための武器でもあるんだ。
十三歳の中でも特に小柄な僕の頭など、簡単に握りつぶせそうなくらい力も強い。
「師匠! ダメって言ったろ? とまるんなら腕にしてくれよ」
そう言うと、気分を害したのか飛び立ち、近くの枝にとまって恨めしそうに僕を見た。
残念ながら僕の肩は師匠には狭く、片脚しか乗らなくてずり落ちてしまう。それで一番高く邪魔なものが周りにない、頭にとまろうとしたんだろう。
翼を広げた師匠は、大人の身長をゆうに越すほど大きい。僕の腕は師匠にはちょっと細いし、めいっぱい伸ばしたって羽根が当たってしまうしで、仕方がないところもあるのだけど……。
そんなことを考えていたら、また頭に来ようとするから、慌てて右腕で防御した。
「どうしたんだよ、機嫌悪いの?」
朝からいちいち僕の嫌がることをする師匠に、もう一度問いかける。もちろん、返事なんてあるはずもなかったのだけど……。
「師匠?」
師匠は大きく首を傾げ、僕の顔を覗き込んだ。
そして飛び立ち、少し先の枝にとまってまた首を曲げ、僕を見る。
僕が足を進めようとすると、まるで妨害するみたいに進路を遮り飛んで、別の枝へ。それでも無視していると、キョキョキョキョッ! と抗議の声。
「もー! 朝から何⁉」
そう言うと、待ってましたとばかりに、僕の進みたい方向とは違う方に行こうとする。
これは、ひとりで運べないほどの大物を仕留めた自慢……かな。
僕に運べって言ってるんだろうなぁ……多分。
まあ、僕より優れた熟練猟師でもある彼女に、文句なんて言えるはずもなく。
「分かったよ……その獲物から運ぼう」
進む先を変更すると、師匠は大変満足げに、空へと舞い上がった。
僕、アシュリー・レイフ・エルドレッドは、去年の冬からこの森で一人、生きている。
同じく猟師だったじいちゃんが、風邪をこじらせぽっくり逝って、独りになった。
これでも猟師をして八年目になるし、腕もそこそこ。なにより、風景に溶け込む獲物を見つけだすのが得意だ。そこだけはじいちゃんも、生前よく褒めてくれた。
師匠は元々じいちゃんの友だちだったけど、じいちゃんが亡くなってからも古屋に通ってきて、いつの間にやら僕とも友だちになってくれた様子。
じいちゃんが生きてた頃は歯牙にもかけてもらえなかったのに、ゲンキンなやつ……。とは言うものの、師匠のおかげで色々助かっているので感謝してる。
まだ気が向いた時だけであるものの、猟を手伝ってくれたりもするし……。
そんな師匠が飛んでいく方向に、僕は足を進めた。
師匠は雌のくせに豪胆な性格で、自分よりもずっと大きな獲物を狙うことがある。狐くらいはお手のもので、子鹿だって仕留めたことがあるらしい。
とはいえ彼女が自分で運べる大きさではないから、そんな時は捌いて頭と臓物をやり、肉と毛皮はもらう。そして後日、もらった分のお礼として、普段あまり食せない大型動物の肝や頭なんかを渡す。
じいちゃん曰く、代々ここの猟師はそのように暮らしていて、多かれ少なかれ、ワシノスリとはそういった共存関係にあるらしい。
「で、今日は何を仕留めたんだ?」
空を舞う猛禽に問うけれど、もちろん返事はない。
この先には川がある。
だけどワシノスリは基本、魚は獲らない……。秋のこの時期は獲物だって豊富なのに、わざわざ水中の川魚に手を出すなんて、普通はしないよな? と考え、死んでうちあげられた川魚でも見つけたのかなと首を傾げた。彼らは掃除屋でもあるから、死肉も食らう。
でも、どれだけ大物の虹鱒だって、彼女に運べない大きさではないはずだ。
全くもって行動の理由が読めず、空を見てため息。
まだ僕じゃ、分からないことが多すぎる……。
もっとじいちゃんに学ぶべきことがたくさんあったのにと、そう思った時だ。
視界の端、獣道から外れたずっと奥に、大きな爪痕を見つけた。
「……熊? こんな猟師の縄張り近くに?」
高い位置にくっきりとつけられた爪痕は、ずいぶんと深く太く、ハッキリしてる。
猟師というものは森の獣にとって天敵で、僕の縄張りは代々の猟師が引き継いできたものだ。獣たちも入るべきじゃないと弁えてるはずなのに。
人の領域と分かって近づいたなら危険だな。こんな所に土饅頭とか作られてたら色々面倒臭いし、獲物を奪いにきたと勘違いされるのも嫌だ。
熊は臆病だけど無茶くちゃ執着心が強くて嫉妬深いから、一度目をつけられたらずっとつけ狙われることになる。鼻もいいから、あっちが殺る気で潜んでいた場合、なかなか気づけない。結果、こっちが殺られる羽目になる。
空を見上げてみると、師匠は優雅に進み続けていて、僕の動きには頓着していない。
「……一応、近くに潜んでないか確認だけしとくか」
師匠の見つけた獲物がその熊って可能性もないわけじゃない。
そうだったらちょっと豪胆すぎるけど、万が一もあるから心構えはしておこう。
すぐ撃てるように猟銃を意識しつつ、違和感を探して周りを見渡し、川縁に流れた視線の先――。
「っ、えっ⁉」
岩陰の鮮やかな青。
驚いて、とっさに木陰へ飛び込んでしまった。自然の中にある色じゃなかったからだ。
――こんなところに、朝から人⁉
村人じゃないよな、山暮らしの人々は、あんな派手な色の上着なんて着やしないし。
青い袖には、ご丁寧に手首から先がついている。残念ながら、上流で流してしまった衣服がたまたま流れ着いたというわけではない様子。そのうえ手はピクリとも動かない。
よくよく考えたら位置も変……。と、思ったら案の定、体の半分は水に浸かっていた。
――やっぱり……中身ごと流れてきたんだな。
お山に視察が入った話を、半月前に村人から聞いた気がする。
この一帯は、とある上流階級の所有地で、僕らはそこに住まわせてもらっている身。何かあるのかねぇって不安そうに言われた。万が一、立ち退きでも要求されたら、たまらないもんな。
もしかしたらその視察、捜索の間違いで、あの上着の人を捜していたのか?
川の上流には滝がある。その滝のさらに上流が、山路から一番近い場所。
それ以外には人が立ち入れるような所が思い浮かばない。
半月前に川へ落ちた人なら、生きてあそこにいるはずもない……。
「死んでるよなぁ……」
滝壺に飲み込まれ、もみくちゃにされてるうちに、何かの拍子で放り出されて、流れて来た。
そう考えるのが自然だったけれど、それにしてはあの手……まだ腐敗している様子もなければ、漂ってくる腐臭もないし……。
……なんてことを、うだうだ考えてしまうのは、あれに近づきたくないからだ。
だけどさっきの熊のこともある。放っておけば死肉を食って、人の味を覚えてしまうかもしれない……。
どうしたもんかと考えていたら、師匠が手の横に降り立った。
よちよち歩み寄って、顔を近づける。
わ、やば。食う気? でもそれはやめて!
遺体だとしても、損傷が酷いと心象が悪くなるからっ!
死体は麓の村に運ぶしかないし、僕一人で運ぶのは無理だから、人を呼ばなきゃならない。だけど獣に食い荒らされた腐乱死体を運ぶなんてこと、やりたがる人はいない。
「師匠っ! それ餌じゃないから啄んじゃダメだ!」
慌てて駆け寄った。
彼女の爪は易々と肉を抉るし、あんな華奢な手なら簡単にもぎ取りそう。
そう考えて覗き込んだ場所にあったモノに、僕の頭は真っ白になった。
華奢な手だと認識していたのに、まさかそれが女の子の手だとは考えが及んでいなかったんだ……。
その子は、胡桃色のトランクを抱え込み、ブーツに包まれた足は水に浸したまま、大岩に半ば崩れるようにもたれかかって、瞳を閉じ、ピクリとも動かなかった。
破れやほつれの目立つ青い上着には、肩に黒いシミがある。そして乱れた伽羅色のスカート、クリーム色のシャツと小豆色をした革のコルセット風ベスト。
アッシュオレンジの髪はベッタリと濡れ、頬や首に張りつき、鼻筋にうっすらそばかすの散った肌は青いを通り越して白い。全身ずぶ濡れだというのに、震えるでもなく……。
だけど僕の眼にはその少女が、まだ生きていると見えた。
「……やばい」
それなら震えないのは、自力で体温を保つことがもう、できなくなっているからだ。
その考えにたどり着いたら、体が動いた。駆け寄り、急いで衣服を剥ぎ取りにかかる。
キツく握られていたトランクの取手を離すのには苦労した。指を無理やりこじ開けて、トランクを取りあげ、やっとのことで袖を脱がす。
それでも少女は微動だにしなくて、文句も言わない。
衣服を全て剥ぎ取って全裸にしたら、節々に擦り傷や切り傷、打ち身があり、特に腕の擦り傷と、背中のえぐれたような傷は大きかった。
体温が下がっているからか、血はもう流れていないよう。とりあえず今はそのままにして、僕も羽織っていたケープマントを外し、上着を脱いでシャツ一枚になる。
上着は少女の腰に巻きつけた。人通りはまずないけど、ケープマントから出るだろうお尻が冷えてしまう。これ以上冷えるのは洒落にならない。命に関わる……。
そうして肩にケープマントを掛け、ボタンを留めてから、両腕を取って背負うように担いだ。
さっき家で巻いたばかりの首巻きを解き、胸前に垂れ下がる腕を結ぶ。意識がないし、自力で掴まっておいてはくれないだろうから。
僕のやることを、師匠は黙って見守っていた。
通常ならこの場で解体するのだけど、それをせず獲物を背負う僕に、餌を盗るなと文句を言うでもない。分かってるのか、いないのか……まぁいいや、今は後回し。
僕が立ち上がっても、少女の脚は引きずられてしまった。背が高い……。当然体重も僕を上回る。
なにより、両手が塞がるのは色々やばい。万が一、さっきの熊や、猪なんかに遭遇してしまったら、僕まで餌食になる。
悩んだけど、銃を犠牲にすることにした。一応腰には手斧があるし、鉄と火薬の臭いがする僕に、率先して近づこうとする獣はいないだろう。縄張りもほど近い。危険なのはごく短い距離だから、いけるはず。
持ってきた猟銃を少女の尻に回し、銃身に座らせるようにして、脚を持ち上げる。
ずしりとした重みに耐えつつ、銃を腰のベルトポーチまで引き上げて、上に置いた。念のため、ロープも手探りで外して、銃身と銃床にひっかけ、腹の前で結ぶ。これで両手を空けたまま、この子を担げる。
重い……けど、去年の猪よりは軽い。
獲物と違って背負えるから、全然楽。
「師匠、飛んで」
舞い上がった師匠の眼を借り、近くに危険な獣がいないかだけを確認して、僕は急ぎ古屋を目指した。
服やトランクは、後で取りにこよう。
今はとにかく、規則正しく一歩を踏み出すことに集中。
薄いシャツ一枚だけの背中から伝わってくるのは、人の肉体の温かさではなく、ひんやりとした冷たさだけ。
「急がないと」
足を進める僕らの上に、大きな鳥の影が重なり追い越して、木々の中に消えていった。