序章 夜を駆ける
僕じゃない。
そう伝えても、誰一人としてその言葉を信じてはくれなかった。
僕じゃない。
僕がやったんじゃない。
どれだけそう訴えても、投げつけられた嘘の方が認められた。
僕じゃない。
本当に僕じゃない。
だけど君、実際これが鞄に入っていたろう。
そう言われてしまえば、僕にはもう、続ける言葉がなくて。
だけど本当に、僕じゃないんだ。
◆◇◆
深夜、僕の身体は駅近の路地を歩いていた。
大通りから滲む照明や、たまにある自販機。街灯、信号機……高い位置の窓に残った灯り。その程度の光源しかなかったけれど、視界は曇り空の日中なみに明瞭。
進む先にひとり、ふたりとこちらに向かい足を進めるサラリーマンの姿も確認できる。なのに、僕の身体は行動を開始。
ほんの少しの助走で勢いをつけて、僕じゃない僕がアスファルトを強く蹴った。
民家とマンションの境にある塀を踏み台に、換気扇カバーすらも足がかりに高く舞って、三階ベランダの手摺り壁を掴み、ひらりと中に身を躍らせる。
「うん、イイ感じだ」
そう、僕の唇が言葉を発した。
「やっとお尻が落ち着いた。やっぱ形だけでも輪郭が整うと違うねぇ」
今日から着込んでいるウィンドブレーカーの、ゆらりと動く尻尾に見立てたベルトを猫はお気に召した様子。だけど規則正しく続く音を耳が拾い、口を閉じた。
ベランダ端から階下をそっと見おろすと、先ほどのサラリーマンが通り過ぎる姿。彼はチラリと塀に視線を向けて、少し首を傾げる仕草。なんとなく違和感を感じ……だけど気のせいだと結論を出したのか、何事もなかったように足を進め、立ち去っていく……。
(もうちょっと慎重に行動してくれませんか……)
あのサラリーマンが行ってから動いたってよかったんじゃないかと、僕は思ったんだけど。
「何言ってんの。そしたらまた次が通って、いつまで経っても侵入できないじゃん」
言ったそばから足音。確かに猫が言うように、終電が過ぎるまでは人通りが絶えることはなかったかも。
「見つからなかったなら、それでよくない?」
そう言い猫が肩を竦めた時、視界がホワイトアウト。けど瞬時に瞳孔が細まり光量を調節したため、また曇り空の日中状態は確保された。
「ミミちゃん?」
明かりがついた部屋から声と、こちらへ近づいてくる人の気配。
白い手がカーテンを握った瞬間、僕の身体はベランダの外、雨樋に取り縋っていた。
「ミミちゃん来たの?」
カラリと開く窓の音。同時に樋を登りきった僕は四階ベランダに滑り込む。
「いるわけないでしょ。いくら猫でも三階まで登れないよ」
「えー、そうかな」
女性ふたりのやりとりを置き去りにして、別棟との繋ぎ目部分にある渡り廊下をベランダづたいに目指す。
下の大通りは、車の行き交う音が続いていた。
ベランダの終わりからは、少し奥に引っ込んだ位置に回り階段付きの渡り廊下が確認できる。
しかしそこまで続く足場になりそうなものがない。距離はおそらく四メートル弱……飛び移るのに失敗して落下していく自分が容易に想像できた。
だけど猫は気にせず、助走もなしにひらりと身を躍らせる。
(ちょっ……っ⁉)
ひとつ階下の階段に急接近。手摺り壁に手をつき隙間に身を滑り込ませた猫は、階段途中であるにもかかわらず難なく着地。
いつものこととはいえ心臓に悪い。本来の僕は運動神経だってそんなに良くない。同じ筋肉を使ってるのに、どうしてこうも動きが違うのか。
「あそこで待っててもしょうがないでしょ」
そう答え、階段を登っていく猫。
(そんなに堂々と歩いたら……っ!)
「オドオドしてたら余計怪しいと思うよ」
――そうかもしれないけど、だからって!
気持ちを口にできない僕のもどかしさなど気にもせず、猫はさっさと階段を上り切った。
最上階の踊り場で屋上へと続く点検用梯子を見つけ、登ると広がる夜空。
「……ふぅ」
このマンションは、渡り廊下を挟み直角に二棟が並び建っていて、はじめの棟よりこちらが一階分高い。その最上階と屋上がオーナー家族の住居だそう。
屋上は半分が庭園風に整えられていたけれど、点検用梯子から登ったこちら側は設備面、室外機や配管、大きな機械とエレベーター機械室、そして屋上庭園へ上がってくるための塔屋が並んでいる。
見渡す視界のいたるところに瞬く光。
このマンションより高いビルもそれなりにあって、灯りがついた窓もちらほら。影が乱立する遠い向こうがぼんやり光って見えるのは東京のネオンだろうか。
猫はそれらをしばらく眺めたあと。
「……さっさと『部位』を取り返すよ」
小さく呟き、ずっと下の大通りに向かうみたいにマンションの縁へと歩を進めた。
段差を跨ぎ越して、さらに進むともう床は無く、遥か下のアスファルトに向かって自由落下。
僕の悲鳴を無視した猫は、途中で腕を伸ばして屋上コンクリート端を一瞬だけ掴む。それによりマンション側にほんの少し身体が振られて、気づくとひとつ下階のベランダの手摺り壁上に立っていた。
続く個室は見るからに高価そうなベースやギター、観葉植物が並び、人影はないものの壁掛け大型テレビには画面いっぱいの映像が止まったまま。
――まだ起きてる。
これは見つかる前に仕切り直しかと考えた時、視界隅の革張りソファに視線は吸い寄せられていた。
クリーム地に大きな赤い柄が派手で、悪趣味なソファだと思った。けど……放り出されたコントローラーにもベッタリと赤がまとわりつき、なんだかおかしい……。
(あの……あそこの赤、見えていますか?)
「赤? 上着のこと?」
――猫には見えてない。
ならあれが残滓だ。
「どこに何があるって?」
(ソファの――)
僕が言い終わるより先に、猫はベランダに飛び降り大窓に手をかけた。
住人の所在を確認してないと抗議してもお構いなしで、猫は部屋に踏み込んでいく。
だけど阻むことはできない。僕は今、僕の身体の所有権を持っておらず、僕が何を言おうと猫はやりたいようにやるだけだ。
ソファに歩み寄った猫は、膝をついて血糊のように滑る赤に顔を寄せ……。
「コタ、どう?」
腐敗臭のような、なんともいえない臭い……。
(……はい、残滓で間違いないです)
でも猫にはこれが分からないらしい。
だから正確には、色でも臭いでもないのだと思う。
今、僕に感じ取れる五感はかなり希薄だ。
自分の身体に居ながら、足が痺れている時みたいな、あるようなないような、そんな感覚。
それでもゾワゾワと背中をつたう恐怖や、踏み込んではいけないところに踏み込む時の忌避感のようなものを、ありもしない色や臭いとして感じ取るのは、この感覚が第六感に起因しているからだと思う。
「そう」
呟いた猫の使う、僕の口角とまなじりが吊り上がる。
笑っているけど笑ってない……。感覚としては遠くても、猫が怒りを燻らせている感情のうねりは我がことのように感じる。
「無駄足にならなくてよかったよ」
呟いた時、奥の扉が開いた。
瞬時にソファの陰に身を屈め、衣擦れと扉の閉まる音を聞く。気配は数歩部屋に踏み込んだあと、足を止め。
「……チッ、ババァ、勝手に入りやがって」
荒い歩調がソファの後方を通り過ぎて窓に向かい、完全に背を向けた男の背後で、僕はゆらりと身を起こす。
窓に映った男の影に、窓越しの闇夜が透過している。
それ以外の部分に反射するのは、フードを目深にかぶり、顔の上半分を覆う白い猫の半面以外、全身黒づくめの不審人物が室内に立つ光景。
男も気づいたんだろう、窓の鍵に手をかけたまま、固まった。
「こんばんは」
声をかけると男の背中がビクリと跳ねる。
慌てて振り返るけれどそれよりも早く、猫は動いていた。
男の視界のギリギリ外から、すぐ隣に張り付くほど身を寄せると、僕が消えたように見えたのだろう彼は、咄嗟に叫ぶ言葉を飲み込む致命的なミス。怪訝そうに眉が寄り――その口元を僕の右手が下から掴む。
「ボクが誰で何をしにきたか、そんなことは重要じゃないんだ」
囁かれた言葉に呼吸を止め、落としたレジ袋から酎ハイとビールの缶が転がった。
男の両手が、口元を鷲掴みする僕の右手首を掴み、必死で引き剥がそうと足掻く。
けれど腕は小ゆるぎもせず、それどころかギリギリ爪先立ちという状態まで吊り上げられて、状況ゆえか、掴まれた頬の痛みか、涙目で何か呻くのが精一杯。
そこで僕は、男の右手人差し指にあったものに気がついた。
一見イカつい指輪。けれど僕には、別のものも重なって見えたんだ。
――鱗……。
七色に艶めく、オパールのような鱗だ。
鱗は肉ごとえぐり取られ、中心に穴を穿たれていて、肉の部分からジュクジュクと血を滲ませている。
血は男の腕から全身にまとわりつき、これがソファやコントローラーにも広がっていたのだ。
「その鱗を返してもらうよ」
唐突な猫の言葉に、男は視線を彷徨わせた。
「イヤなの? ふぅん……」
一気に機嫌を損ねた猫が、カラリと窓を開く。
「ならこのまま死んでもらうことになるけどイイのかな?」
(だっ、ダメ!)
僕の静止は完全無視。
猫はそのままベランダに出て、あろうことか男を虚空へ押し出した!
上半身が手摺りの向こうに傾いでいき、足が床を離れ虚空を掻く。
「ムー、ンンーーっ⁉」
叫び声は、口を塞がれ響かない。手が僕の腕を掻きむしるけれど、猫は気にもしなかった。
(違う、鱗じゃ通じない! 彼には指輪にしか見えてないんだ!)
僕も必死で訴えたけれど、猫は無反応。
怖い。
嫌だ。
人殺しになんてなりたくないっ!
だけど側から見たら、今の僕は間違いなく……っ。
――それにどうせ、僕じゃないと言ったって通用しないんだ……。
誰がどう見たって、今、人を殺そうとしてるのは僕の身体だ。
けどそこで。
「ちゃんと言わないと分かんないのか……。その指輪を返してって、ボクは言ったんだけど」
噛んで含めるような猫撫で声に、男の瞳が僕を見た。
角膜に映り込む、白い猫の半面から覗く青灰色の瞳が、人にあらざる縦長の瞳孔を細め、笑う。
そこには慈悲なんて微塵もない。
男は決死の覚悟で戦慄く腕を緩め、右手人差し指の肉つき鱗を外しにかかった。
落とすな、落とさないでくれと訴え続ける、濡れた瞳。
指輪が震える手で差し出され、それを僕の左手が受け取り。
「はじめから素直にそうすればよかったのに」
言いながらグイと、男の背をさらに外へと押し出し――。
「んンぅンーーっ⁉」
叫んだ男は逆側――部屋の中に放り捨てられ、床に体を強く打ち付けた。
痛みにびっくり顔で周りをとっさに確認するけれど、黒いダッドスニーカーが手を踏みつけたから悲鳴をあげる。
「うるさいなぁ、静かにしてよ」
「う……ぅぐ……」
理不尽な要求にも従順に従った男に、猫はぐっと顔を近づけ、細まった瞳孔でにんまり笑ってみせた。
「横暴だと思う? ハハッ、でもこれ因果応報なんだよ。世の中がキミにばかり都合イイはずないでしょ。人を呪わば穴二つ……無理やり手繰り寄せた運は、それ以上の怨みを買うんだ」
凍える視線で見おろす僕を、蒼白な顔で見あげる男。
「今回はこれで帰ってあげる。でも……次また君がこの手のモノに手を出したと分かれば、ボクはもう容赦しない。その時は命を貰うよ」
分かった? と、顔を覗き込まれ、必死に頷く男に満足した猫は、ベランダに足を向けたのだけど――。
手摺り壁に手をかけた時、背後から「まさ君どうしたの? 開けていい?」という、年配女性らしき声。
男は一瞬迷ったように扉を見て、次に僕を見たんだけど。
「それじゃね」
気にせず告げた猫が、ひらりと手摺り壁を越えてしまったから、溢れ落ちそうなほどに瞳を見開いた。
そのまま落下した僕は、彼のその後を見ていない。
二つ下階のベランダに滑り込んだ猫は、すぐに渡り廊下へと飛び移り、被っていた半面をフードの中に押し上げた。
肉つき鱗を確認して溜息。
「またハズレだし……」
少々の落胆を滲ませ「いつになったら会えるんだろ」とボヤきながらも、持参していたガラスケースを取り出して鱗を入れた。
「キミはもう直ぐ帰れるから、しばらくここで大人しくしといてね」
言い含め、堂々とエントランスからマンションを出て、ぶらりと夜道を帰路につく。
ここからはもう帰るだけ。よかった、今回も無事――。
「君」
唐突に背後から声がかかった。
「こんな時間にどうした?」
振り返らずそっと半面を目元に戻し、ガラスケースをポケットに滑り込ませる猫。
「塾の帰りなんて時間じゃないし、未成年がコンビニに行く時間でもないよ。もしかして、帰るところがないのかな?」
金属の摩擦音に続く、ガチャンという音。
ひたりひたりと近づく気配。
肩に手がかかり、少し上から顔を覗き込まれたけれど。
「にゃぁん」
「っ⁉」
迫真の鳴き声と猫の半面に一瞬気を取られたお巡りさん。
その隙を逃さず、猫は一気に加速した。
「あっ、待ちなさい!」
静止の声を振り切り、適当な路地に身を滑り込ませ、跳躍。塀に飛び乗り駆けて、入り組んだ家々の隙間に逃げ込み、反対の通りに出ると見せかけ、両側の壁を蹴るように渡って上へ。
まだ聞こえてくる声を振り切って、屋根から次の屋根に飛び移って、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて……声が聞こえなくなっても駆けて、駆けて、追いつかれないよう念入りに遠回りして、やっと辿り着いたマンションの三階まで雨樋を掴み一気に登り、ベランダへ飛び込んだ。
「……ふぅ」
開けっぱなしの窓からコッ、コッと秒針が時を刻む音。卓上の時計が示すのは午前三時手前。
靴を脱ぎ、そのまま部屋を突っ切って、廊下の造り付けキッチン、シンクに顔を突き出して。
「う……ゔぁ……かはっ」
喉に指を突っ込み吐いたら、ぼとりと落ちた真っ黒に艶めいた毛玉。
それはむくりと身を起こし、小さいながらも猫らしくググッと背伸びして――。
「お疲れ」
青灰色の宝石みたいな瞳を煌めかせ、僕を見あげて鈴を転がすような高音で、そう言った。